藩への往診の手当として扶持籾(米)を年間五十俵(300kg )を藩よりもらい受ける。
松平家の家臣に召し抱えられ、給与として十五人扶持(27石相当)と薬種代として年三両をいただく。
松平家より御側医師席を命じられ薬種料として年三両いただく。
松平家より御側医師席を命じられ薬種料として年三両をいただく。
松平家より御側医師席を命じられ二人扶持を加増。合計二十人扶持となる。
医術修行のため江戸滞在中三人扶持をいただく。また同年亡父養庵の家督十三人扶持をいただく。
格式は医師本席を命じられ薬種料として年三両いただく。
華岡青洲・鹿城による華岡流外科塾「合水堂」に入門。
福沢諭吉らとともに緒方洪庵が主宰する適塾に入塾し蘭学を学ぶ。
浜田藩最後の明細分限帳に八人扶持として名前が残る。
薬舗開業試験に合格する。幕末の動乱後、東京で薬剤師を始める。
東京市芝區西久保櫻川町(現在の東京都港区虎ノ門)から東京市牛込區富久町(現在の新宿区富久町)に転居。
明治、大正、昭和初頭の日本構造変革期、当時目新しい先端技術であった電気インフラの黎明期において、その普及事業にも取り組み、人々の暮らしや地域の発展、復興に尽力した。
江戸期に国内で発明された民間薬の梅の濃縮エキス「古式梅肉エキス」を、一般の人も気軽に服用できるようにと製造開発に着手。赤痢、チフス、食中毒、消化不良に良いとされる商品を瓶に詰めて発売した。
有限会社阿部養庵堂薬品を設立しサプリメントの販売を開始。
ブラジル有機農園と提携し、オーガニックプロポリスを販売する。
日本ブラジル大使館にて健康物産展を共同開催。
阿部養庵堂薬品 代表取締役社長に就任。
日本で初めての法令遵守したNMNの販売を開始。
NMN製品の海外販売を開始。
静岡県立大学、鳥取大学との共同研究を開始。
株式会社 阿部養庵堂薬品へ社名変更。
東京大学、東京理科大学との共同研究を開始。